記念碑
2006年10月29日
弊社(ジロン自動車)の立体ショールームの奥に据え付けてある゛記念碑゛の話です。
こちらに来られて、目にされた方もいらっしゃるかもしれませんし、何故このようなものがあるのかと
思われた方もいらしゃるかも。。
下記 記事に出てまいります自動車修理業 吉田二郎(故)は、現在のジロン自動車株式会社の創業者です。
下記の文は 読売新聞 昭和50年(1975年)6月21日 第8164号から
太平洋戦争中、マレーシアに派遣され、町の警察署長として親身に現地民の世話をした大阪市の自動車修理会社社長に、このほど、重さ150キロもある顕彰碑が現地民から贈られました。敗戦直前の昭和19年゛優しい日本人″に感謝した住人が建立し、戦後、取り壊し命令にも「この人だけは私たちの友人だ」と守り抜いてきた碑だった。経済侵略などアジア人の中で、日本人に対する不信感が高まっており、この日本とマレーシアにかかった゛友情のにじ″は多くのことを教えている。
この人は大阪市浪速区下寺4-4-7、自動車修理会社経営吉田二郎さん(70)。届いた碑は、高さ1.2メートル、幅60センチ、厚さ10センチの御影石。碑文には中国語で「吉田氏は、身をもって範となし、理知に従い、清廉にして節気あり、自制力あるは特に貴きものとする。誠をもって民を愛すこと赤心のごとく、ここに記念碑を・・・・」という内容がきざみ込まれている。昭和19年10月17日、マレーシア・クリアン州のバガンスライの町民が建立、30年たった現在でも強いきずなに結ばれている゛証拠″としてプレゼントされたものである。
吉田さんは昭和18年、大阪府警察部の警部在任中、陸軍省の依頼でマレーシアの治安行政要員として派遣され、バガンスライ地区の警察署長に就任した。受け持ちは3署、約100人の現地人署員を指揮するものだったが、苦しい戦況の中だけに周辺地区では警察署の襲撃、民間日本人の殺害が相つぎ、不安な情勢だった。
着任した吉田さんが最初に考えた事は、どうやって現地民にとけ込むか。それには、自分の考え方や気持ちを十分相手に伝える「ことば」が カギになっていたが、現地民の通訳は、片ことの日本語しか話せず、とても「こころ」を伝えることはできそうにない。そこで、毎日深夜まで数ヶ月間、マレー語をおぼえることに勤めた。相手の感情のひだまで読みとるために、現地のスラング(俗語)も聞き書きした。
当時、町には、マレー人のほか インド、中国人など各人種が入り混じっており、風習、ものの考え方も異なる人たちのこころをまとめるために、吉田さんが思いついたのは、町民自身の手で秩序を守る「自警団」の結成であった。
各人種から若者五十人を集め、「各国、各民族が、いがみ合い、戦争をしていたのでは、平和な社会は築けない」ー非戦論ともいえそうな吉田さんの゛訓示゛は、若者のこころをつかんだ。
木造平屋建て、約百平方メートルの自警団本部を建設することになり、吉田さんは軍部と折衝。町民に「金にゆとりある人は資金を。技術に手をつけている人は技術を。労働を。」と呼びかけ、さらに留置場の犯罪者にも「君たちにも良心はあるはず、手を貸してほしい」と説明、手錠を解かれた犯罪者は涙を浮かべ、吉田さんに手を貸したという。
町ぐるみの事業のほか、吉田さんは現地で「オペラ」と呼ばれる民族芝居のシナリオを三編書き上げた。「おお、うるわしき愛」と題する一編は、マレーシア、インドネシア、インド、華商たちが助け合い、手をとってインド独立をめざすーという内容で、上演されるたびに住民からかっさいを受けた。さらに芝居小屋、ゲーム室、コーヒー店をまとめた娯楽場を開設した。着任一年半、吉田さんはピストルを持たない異例の日本人署長として すっかり町民の信頼を得た。
敗戦後、帰国した吉田さんは、警察官をやめ、好きな自動車修理の道にはいった。しかし、バガンスライの町の人々との思い出はつのるばかり。さる四十八年秋、思い切って同町の警察署長へ手紙を書いたところ、マレー人のズビリ署長から「記念碑も無事に残っている。ぜひ一度きてほしい」と返信が届き、さる三月、三十年ぶりに現地を訪問した。青年だった自警団長や町の人たちは温かく迎え、帰国の直前「この碑を日本に送り、他の日本人に私たちとの友情を伝えてほしい」と記念碑の日本移転がきまった。
さる十七日、神戸港に着いた記念碑は吉田さんの自宅に届けられた。「マレーシアの立場に立った援助を一日も早く確立する事が大切だ」と吉田さんはこの碑を自宅前にすえ、道行く人たちに呼びかけたいと言っている。