ABARTHの話 その1 〜イタリア移住まで
2021年02月13日
いつもジロン自動車のブログをご覧いただき、ありがとうございます。
本日からABARTH の成り立ちや特徴などを、
受講した研修の内容をもとに、みなさまにお伝えできればと思います。
お付き合いいただけましたら幸いです。
アバルトの設立以来の魅力の一つが、非力なマシンがメジャーなマシンたちを
次々と倒していったことにあるのではないでしょうか。
大衆車であるチンクエチェントを主なチューニングベース車としたアバルトの数々の勝利は、
「ジャイアントキラー」、「ピッコロモンスター」とも呼ばれ、伝説にもなっています。
アバルトの設立者であるカルロ・アバルトは、1908年11月15日オーストリア・ウィーンで生まれました。
父親はイタリア系オーストリア人、母親はオーストリア人です。
出生時の名前はイタリア語系のカルロでなく、ドイツ語系のカールでした。
幼いころから機械工作に興味を持ったカールは、自転車レースでその才能を発揮し、
18歳になったころには地元ウィーンの自動車工場で働き始めます。
見習工として働き始める一方、二輪車レースの世界でメカニック兼ライダーとして活動し始めます。
その後、20歳で初めて二輪車の設計製作をしています。
1930年、22歳になったカールはバイクレースにて大事故を起こし、
一時は生命の危機にも瀕する重症に見舞われます。
以後医師より2輪レース活動を禁止されてしまうのでした。
しかしスピードへの情熱は消えることはなく、なんと3輪部門での復活を果たし、
活躍を重ねたのちは最強のサイドカー・レーサーの称号も獲得するに至りました。
最強のサイドカー・レーサー
その後世界情勢が緊迫してくる中、ドイツから起こったファシズムが支配したオーストリアを脱出。
比較的自由が認められていたイタリアへレースの拠点を移しました。1939年のことです。
父カールがイタリアでカルロとして生まれ、オーストリアでカールに名を変えたのとは逆に、
カールはイタリア移住を機に、カルロと名を変えたのは興味深いですね。
こんな感じで、ABARTHの歴史を紹介していこうと思いますので、
次回もご覧になっていただければと思います!!